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人生朝露

人生朝露

フィリップ・K・ディックと荘子。

荘子です。
荘子です。

フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)。
フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)と荘子をやっています。

参照:フィリップ・K・ディックと禅と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5142/

1969年、「SF作家としての経験の中であなたに最も実り豊かなアイデアを提供してくれた、どんな出典や資料を新人作家に推薦しますか?」という質問に、PKDはこう答えています。

≪臨床心理学の最新の研究、とくにヨーロッパ実存心理分析学派の仕事を扱っている定期刊行物。C・G・ユング。禅仏教、老荘思想などの東洋の著作。通俗的でない、典拠の確かな歴史書(たとえば、『ブルータル・フレンドシップ』)。中世の著作、とくにガラス製法のような工芸、科学、錬金術、宗教を扱った著作。ギリシア哲学、あらゆる種類のローマの文献、ペルシアの宗教書。芸術理論に関するルネサンス時代の研究書。ドイツロマン派の劇作。(The Double:Bill Symposium:Replies to A Questionnaire for Professional SF Writers and Editors )『フィリップ・K・ディックのすべて』より≫

・・・ちなみに、PKDがちゃんと「老荘思想の影響を受けています」と公言していたことを、先週知ったばかりです(笑)。しかし、これでやりやすくなります。

『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(1964)。
『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕(The Three stigma of Palmer Eldritch)』の続きです。この作品はPKDが、『荘子』のことばに触れていると見てとれるものでして、直観的に活用していますので、キーワードのみ並べます。

「幻覚と現実」」「善と悪」「生と死」というようなこの作品のテーマと、前回抽出した「進化と死を語るされこうべ」「シュレーディンガーの猫もしくは南泉斬猫」。これに、ディック作品には度々登場する<予知能力者(プレコグ precog)>。さらには、<人間の魂の漁師、パーマー・エルドリッチの投げた幻覚の網>、<チキン質の亀の甲羅>、<聖痕(スティグマ)>というキーワードを念頭に、以下の『荘子』の寓話をお読みください。

Zhuangzi
『宋元君夜半而夢人、被髮?阿門、曰「予自宰路之淵、予為清江使河伯之所、漁者余且得予。」元君覺、使人占之、曰「此神龜也。」君曰「漁者有余且乎?」左右曰「有。」君曰「令余且會朝。」明日、余且朝。君曰「漁何得?」對曰「且之網、得白龜焉、其圓五尺。」君曰「献若之龜。」龜至、君再欲殺之、再欲活之、心疑、卜之、曰「殺龜以卜、吉。」乃刳龜、七十二鑽而無遺筴。打開字典顯示更多訊息。仲尼曰「神龜能見夢於元君而不能避余且之網。知能七十二鑽而無遺筴。不能避刳腸之患。如是、則知有所困、神有所不及也。雖有至知、萬人謀之。魚不畏網而畏鵜?。去小知而大知明、去善而自善矣。」嬰兒生無石師而能言、與能言者處也。』(『荘子』外物 第二十六)
→宋の元君が夜中に夢を見た。髪を振り乱した男が門の外から覗き込むようにして「私は宰路の淵というところから参りました。清江の使いとして河伯のところへ向かう途中、余且という名の漁師に捕らわれてしまいました。」と訴えていた。元君はそこで目が覚めた。家来に夢占いをさせると、「それは神亀です」という。元君は「漁師の中に余且という名の者はおるか?」と尋ねると、左右の家臣が「おります」という。元君は「明日、その余且なるものを連れて参れ」と命じた。翌朝、余且に「漁をして何を獲った?」と尋ねると、余且は言った「私の網に白い亀がかかりまして、その大きさは五尺四方にもなります。」「ならば、その亀を献上せよ」と元君は命じた。その亀を元君は、殺すべきか、生かすべきかを悩んだ末、占いに頼ることにした。占いでは「亀を殺して、その亀で占えば吉」との結果が出た。そこで、亀の甲羅を裂き、占ってみると七十二回ともハズレがなかった。この話について仲尼曰く「この神亀は元君の夢枕に立てるほどのちからがありながら、漁師の網から逃れるちからすらなかった。七十二回も未来を的中させながらも、腸をえぐられる苦しみから逃れるちからがなかった。このように、知にも人知を越えたちからにも行き詰まるものがあり、人知を越えたところで俗人の網にかかるものだ。魚は、鳥におびえていながら、人の網を恐れることを知らない。さかしらな知に囚われず大いなる叡智と共にあり、世俗の善を捨てされば、自ずと善のこころが芽生える。赤ん坊が生まれたままの状態から、大先生の教えなど請わずに立派に言葉を話せるようになれるのは、ただ、話のできる者と共にいたからだ。」

参照:「怪」を綴るひとびと その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5114/

『荘子』のこの寓話は、恐ろしく宗教的な示唆を伴います。未来を予知する能力を備えながら俗人の網にかかり、身体をえぐられる亀。中国の古典にあるこの「聖人の処刑」の暗示は、キリストが十字架に打ち付けられた時の痛みの痕跡が忽然と現れる、スティグマ(聖痕・stigmata)に現象に酷似しています。

参照:エヴァンゲリオン アスカ覚醒!
http://www.youtube.com/watch?v=FWD6C-Xc8Sg
↑これは、その実験例。

アッシジのフランチェスコ (1182~1226)。
「スティグマ」は13世紀初頭に「アッシジの聖フランチェスコ」という西洋の聖人に発現したものとして有名です。アッシジのフランチェスコという人物は、キリスト教の伝統的な思考から言えば確実に外れた人でして、動物や鳥にも洗礼を施したとされます。それだけに彼が「エコロジーの聖人」として評価されるようになったのは、死後700年以上経過した1979年11月のこと。ヨハネ・パウロ2世の頃です。キリスト教の思想の枠組みにおいては、どうしても、「自然」への狭隘な観念がセットになるせいで、老荘思想と相容れないものが多いんですが、「アッシジの聖フランチェスコ」は、西洋人には珍しく荘子と比較しても親和性のみられる人物です。

参照:Wikipedia アッシジのフランチェスコ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3

PKDの作品には、もう一つ有名な「亀」の話があります。
『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』(Androids Dream of Electric Sheep? 1968)
≪オークランド発
 探検家クック船長が、1777年、ときのトンガ王に渡したカメが、昨日死亡した。二百歳近い高齢であった。 テュイマリラと名付けられたこのカメは、トンガ諸島の首府ヌクアロファの王宮内で飼われていた。トンガ島民はこの動物を酋長として敬い、その世話のために特別飼育係が任命されていた。カメは数年前の失火いらい盲目であった。
 トンガ放送の伝えるところによると、テュイマリラの遺骸は、ニュージーランドのオークランド博物館に寄贈されるとのこと。
 ロイター通信、1966年 
(フィリップ・K・ディック著『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』より)≫

・・・SF小説の金字塔的作品の最初に書かれた「祀られた亀」の話。
アンドロイドとの人間との関わりを描いた作品に出てくるには、あまりにも唐突なこの序文。発表されて40年以上経ちましたが、これ、『荘子』以外で説明が可能なんでしょうか?

Zhuangzi
『莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千?矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎?」』(『荘子』秋水 第十七)
→荘子は釣竿を持って、釣り糸を見つめながらこう言った。「楚の国には神龜という亀がいるそうですね。死んでからすでに三千年も経っていて、楚王はこれを大事にして、廟堂に祀っていると聞きます。その亀の身にすれば、死んで骨を大事に祀られていることを望んだのでしょうか?それとも、泥の中で尻尾を振ってでも生きていくことを望んだでしょうか?」

『惠子謂莊子曰「人故無情乎?」莊子曰「然。」惠子曰「人而無情、何以謂之人?」莊子曰「道與之貌、天與之形、悪得不謂之人?」(徳充符 第五)
→恵子は荘子に質問した「聖人と言われる人に感情がないというのは本当ですか?」荘子曰く「そうです。」恵子は質問した「感情がないのに、聖人は人と言えるのでしょうか?」荘子曰く「道(tao)は人に姿を与え、天は私に肉体を与えています、それだけでも、人間と呼べないのでしょうか?」

「亀」について、ミヒャエル・エンデはこんなことを言っています。
ミヒャエル・エンデと亀。
≪ 五、そのかたち。これがとても説明しにくい点だ。今日の思考にはなじみがあまりないことだからである。亀を解剖学的にではなく、象徴的に見てみよう。つまりその形状がなにを表現しているかをとらえてみる。するとそこにいるのは、のっそりと渡り歩く角質の頭蓋(とうがい)にほかならない。頭蓋も世界の神話のなかで重要な役割を担っている。『エッダ』によると、星が輝く天空は原・氷巨人の頭蓋が形成している。頭蓋には、上に向かった小さな開口部の“ひよめき”があり、新生児では短期間まだ開いているが、だんだんと閉じてゆく。古代の知識のなかには、これは身体に残る太古の名残だと伝えるものがある。太古、人間の“ひよめき”は生涯開いたままだったというのだ。そこにはある器官があった(その独特の形は、今日、どの仏像にも“髪型”として見られる)。この器官のおかげで人間は、夢を見るように、時空の彼方の、つまり天空の彼方の世界を知覚することができた。それをインド人は「千の葉がある蓮」とよんだ。西洋の王冠も、そのあと忘れられたこの器官の写し絵なのかもしれない。 亀ではこの頭蓋は閉じられている。思考する自我は自己のもとにあり、自覚される。言い換えれば、“亀は自分の小さな時間を自分のなかに持っている”。(以上『エンデのメモ箱』「亀」より)≫

参照:荘子と『水槽の脳』。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5075/

列子の人造人間は蝶の夢をみるか?
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5088/

今日はこの辺で。


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